PR 更新日 : 2024.07.31

お金の歴史 昔から現代までの日本の貨幣の移り変わり

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※写真はイメージです。

日本のお金(通貨)は、その時々の社会変化や新しい技術を反映しながら、常に進化を続けてきました。この記事では、日本のお金(通貨)の歴史の概要を、古い時代から順に紹介します。

物々交換の時代

日本の貨幣史の始まりは、縄文時代や弥生時代のような原始社会で行われていた物々交換です。人々は、魚介類と米、獣肉と野菜など、互いに必要な物品を交換することで、経済を成り立たせていました。

この時代には一定の価値基準となるような貨幣はまだ存在せず、取引は双方の合意に基づいて行われていましたが、交易の活発化や社会の発展に伴い、より効率的な交換手段が求められるようになっていきます。

中国の貨幣を使っていた時代

5世紀頃には、中国大陸で作られた銅銭が朝鮮半島を経由して日本に伝来し、次第に流通するようになりました。しかし輸入された銅銭は、広くは使われませんでした。主に権力者たちが交易に使ったり、財産として蓄えたりしていました。

日本製の銭貨の時代

7世紀後半には、中国の銅銭を手本にして、日本で初めて、本格的な金属貨幣が鋳造されました。「富本銭(ふほんせん)」と呼ばれる銭貨です。

そして708年には元明天皇の命で「和同開珎(わどうかいちん)」が鋳造されます。和同開珎は、中国の「開元通宝」を参考にして作られた丸形の銅製銭貨です。当時の元号「和銅」にちなんで名付けられ、表面には「和同」、裏面には「開珎」の文字の刻印があります。

平安時代までには、「和同開珎」を含めて12種類の銭貨※が鋳造されましたが、鋳造技術の問題や原料の銅不足、国家の財政難などの理由から、日本での銭貨鋳造は次第に減少しました。質も低下して民の信用を失ったため、乾元大宝を最後に日本では鋳造されなくなってしまいます。

※12種類の銭貨をまとめて「皇朝十二銭」と呼びます。(和同開珎、万年通宝、神功開、隆平永宝、富寿神宝、承和昌宝、長年大宝、饒益神宝、貞観永宝、寛平大宝、延喜通宝、乾元大宝)

中国の銭貨に依存した時代

国内で銭貨が発行されなくなってからも、人々は取引に便利な銭貨を求めていました。そのため、中国から「宋銭」が輸入され、広く流通するようになります。宋銭は「永楽通宝」などとも呼ばれ、渡来銭でありながら朝廷公認の銭貨となったのです。日本の銭貨制度は、事実上宋銭に依存していたことになります。

15世紀には国の許可なしで鋳造された「私鋳銭」「模鋳銭」「加治木銭」などの銭貨が巷で使われるようになり、質の悪い銭貨を避けるために民の間で撰銭(えりぜに)が行われるようになりました。幕府は撰銭令を出して撰銭を取り締まろうとしましたが、民は信用度の高い銭貨を求めていたので撰銭はなくなりませんでした。

銀の登場と秤量貨幣の台頭

15世紀頃、日本の銀の産出量が増加したことから、新しい通貨形態が登場しました。丸い銀の塊を必要な分だけ切り取り、重さで取引する「切り銀」です。切り銀は、それまで使われていた銭貨に比べて高額な取引に対応できる利便性があったことから、商業の発展を支える重要な役割を果たしました。宋銭の価値が不安定になっていたこともあり、切り銀は国内取引において広く利用されるようになっていったのです。

切り銀と同時期には、金を延ばして切り取る「切り金」も使われるようになり、切り銀と合わせて、後の江戸時代の貨幣制度の基礎となりました。

日本製貨幣の再発行と三貨制度の確立

江戸時代になると、再度、国内発行の銭貨が登場して、貨幣制度は一新されました。1601年に徳川家康が大判・小判・一分金・丁銀・豆板銀という5種の金貨・銀貨を発行したのです。それらの銭貨は、大きさ・重さ・品位(金銀の含有率)が揃えられていて、民の信用を得やすいものでした。

その後、三代将軍家光は、金貨(小判など)、銀貨(豆板銀など)、銭貨(銅貨。寛永通宝など)の3種の貨幣が流通する「三貨制度」を確立しました。三貨制度は、金・銀・銅それぞれの金属の価値に基づいて貨幣を体系的に運用した制度です。幕府による貨幣発行と管理の体制が整備されました。

金貨の中でも特に有名な小判は、薄く楕円形をした金塊で、表面には年号や金の純度が刻まれています。金は銀や銅よりも希少価値が高いため、高額な商取引や財産蓄積などに利用されました。

流通していた銀貨の中で主だったものは、豆板銀と呼ばれる棒状の銀貨です。銀は金よりも安価な金属ですが、銅よりも価値が高いため、日常的な商取引において広く使用されました。

江戸時代を通じて流通した銭貨は、寛永通宝と呼ばれる銅銭です。寛永通宝は、中国の明朝で作られた銭貨を参考に鋳造されたもので、表面には「寛永通宝」の文字が刻印されています。銭貨は、最も安価な貨幣単位として、庶民の生活の中で使用されました。

1670年には渡来銭の使用が禁止され、三貨制度は江戸時代の経済成長を支える重要な基盤となったのです。

なお、江戸中期以降は経済がさらに発達してお金の需要が高まったため、改鋳(かいちゅう)が何度も行われました。改鋳とは金銀の品位や重さを変えることです。二朱金、二分金、一朱金、五両判といった金貨、二朱銀といった銀貨など、通貨の種類も増えました。また、地方においては、公家・寺社が発行した私札、大名が発行した藩札というような紙幣も使われたのでした。

円の誕生

1871年、近代国家として歩み始めた日本は、新しい貨幣制度「円」を導入しました。明治新政府は、国際的な交易を円滑化することを目的に据えて、それまでの複雑な貨幣体系を一新する大改革を行なったのです。

当時の円制度では金本位制が採用され、金貨を基準とした価値体系が構築されました。発行された金貨は、20円、10円、5円、2円、1円の5種類あり、それぞれの価値を決めたのは、金が含まれる量でした。金貨に加え、銀貨(50銭、20銭、10銭、5銭)・銅貨(2銭、1銭、半銭)も補助貨幣として発行されました。

円が導入されたことによって国内外の取引が活性化され、経済が成長したことから、円は日本経済の近代化にとって重要な役割を果たしたと言えるでしょう。

日本銀行券の登場

1882年には、日本の金融システムの中核的な役割を担う中央銀行として、日本銀行が設立されました。日本銀行が与えられた特に大きな権限は、円紙幣の発行を独占的に行うことです。

日本銀行は政府紙幣である日本銀行券を、1885年にはじめて発行しました。当初発行された日本銀行券は、1円、5円、10円の3種類でした。その後、経済発展に合わせて、20円券(1897年)、50円券(1900年)、100円券(1902年)と、高額紙幣も発行しました。

ただ、偽札が多く出回るというアクシデントもあったのです。それをきっかけに日本銀行は様々な工夫をしました。ドイツへの印刷発注、人物の複雑な肖像を入れたデザインの採用、香港にあるイギリス造幣局から機械を仕入れて日本的なデザインの紙幣を印刷する、などの工夫です。

高額な商取引に使いやすい日本銀行券は、円の導入と同様のインパクトで、日本の経済活動を活性化したと言えます。

高額紙幣の登場

1942年、政府は円の金本位制をやめ、日本銀行とともに通貨の発行量を管理・調整するようになります。

第二次世界大戦が終わると、物資の少なさに対してお金が増え、お金の価値が暴落しました。インフレ高進と経済成長への対応が必須だったため、政府や日本銀行は、高額紙幣を続々と発行せざるを得ませんでした。1945年には1000円札、1957年には5000円札、1958年には10000円札と、それまでの紙幣では対応しきれない高額な取引に対応できる紙幣が発行されました。新円切り替えと呼ばれます。

これらの高額紙幣の発行は、経済規模の拡大と活発な取引を支える大きな役割を果たしました。

戦後の新しい硬貨

第二次世界大戦後には、紙幣だけではなく、硬貨も新しく発行されました。1957年には100円硬貨、1982年には500円硬貨が導入され、現在に至るまで広く使用されています。

戦後の新硬貨は、耐久性や偽造防止機能が強化され、また、高度経済成長期に合わせて、500円硬貨という高額硬貨が導入されたことが特徴的です。

現代の紙幣

現在使用されている最新の紙幣は、2024年7月に発行された、千円札(北里柴三郎)、五千円札(津田梅子)、一万円札(渋沢栄一)の三種類です。これらの紙幣は、紙質の向上、偽造防止技術の大幅な向上、ユニバーサルデザインにより、高い信頼性と安全性を実現していると言えるでしょう。

オリンピックや万博などの重要な出来事があると、それを記念して、特別なデザインの硬貨が発行されることがあります。

また、近年は、国が行う大きな取り組みの象徴として、硬貨が発行されることもあるのです。「地方自治法施行60周年記念硬貨」は、地方分権の推進や地域の個性を活かす取り組みの一つとして発行されました。47都道府県それぞれをデザインした硬貨が発行されたのです。

記念硬貨は、単なる硬貨としての役割を超え、日本の歴史や文化を伝える貴重な存在ともなるでしょう。

著者 : 株式会社クヌギ

2009年設立。日本クレジット協会 準会員、全国消費生活相談員協会 企業賛助会員。

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